ご案内

八五年(昭和六O年)一月末に地上四階地下一階のスマートな建物が完成し、八五年三月から森の里で業務を開始する。 研究整備の充実と、研究者の自由な発想を促進するための環境づくりを目指したこの研究所は、いたるところに新しいアイデアが盛り込まれている。
高度の研究機能を集中した機能別実験室、オープンでかつテ−マの変更に容易に対応できるユニット実験室、じっくり考えをまとめるための思考実験室、自由な発想を得るため寝ころがって議論のできるブレーンスト−ミング室、眺めがよく快適で食事にも打ち合わせにも活用できるコミュニケーションプラザ(森の里ホール)などなど。 こうしたユニークなアイデアはNHKテレビでも紹介され、訪れた多数の見学者を驚かせた。
八六年(昭和六一年)秋にはBCS賞(建築協会賞)を受賞するなど、ン」のシンボルとして世間の注目を集めたのである。 こうした技術開発力の強化、特許戦略というのがキヤノンの経営戦略の大きな特徴だが、さらにもうひとつ、キヤノンが八0年代に入ってから積極的に進めたのが「独創技術をテコにした、合従連衡による柔軟な多角化」だった。
すなわち、将来の多角化に不可欠な技術、ノウハウを導入するために、キヤノンでは自社のもつ技術を引き換えに開放するというクロスライセンス戦略をとったのである。 たとえば、アメリカのIBM社、テキサス・インスツルメンツ社などとの間で、また日本企業とは東芝などとの間で広範囲なクロスライセンス契約を結んでいる。
その一方で「技術をカネに変えていく戦略」としてOEM販売にも力を注いだ。 いずれも名だたるハイテク企業が相手である。

たとえば、八三年(昭和五八年)にはバロース社とパソコンなどのOA機器についてのO普通紙複写機のOEM供給と、将来の共同開発・生産協力・製品の相互供給などを含む業務提携を行なった。 さらにテキサス・インスツルメンツ社とは先端技術製品の共同開発などで技術提携を結んだし、イタリアのオリベッティ社とは八四年から普通紙複写機のOEM契約を結んでいるまた、HP社やアップル社に対してはコンピュータ向けのレーザーピ−ムプリンタをそのほかにも、キヤノンは各企業の求めに応じてパソコン向けのサ−マルプリンタやインクジェットプリンタをOEM販売している。
こうした「商売」ができるのも、つきつめて言えば、キヤノンの製品技術が優秀であるからにはかならない。 これまで見てきたように、キヤノンは技術開発、研究開発に惜し気もなく人、もの、金を投じてきた。
しかも、目先にとらわれずに、長期的な展望に立っているのがきわめて大きな特徴である。 現在のキヤノンの「稼ぎ頭」である複写機にしてもレーザーピ−ムプリンタにしてもバブルジェットにしても、いずれも基礎研究から製品化きれるまで一O年以上の長い年月がかかっている。
それを可能にし、支えてきたのは、そのときどきに画期的なヒット商品が登場するという幸運もあったが、忘れてならないのはキヤノンの財務戦略である。 金がなければ、今日の「技術のキヤノン」という姿はありえなかったといえる。
キヤノンの財務戦略の大きな特徴は、きわめて早くから海外の金融市場に目を向け、積極的にエクイティファイナンスを繰り返してきたことである。 いまでこそ日本企業の外債発行は珍しくないが、キヤノンがはじめてロンドン市場で五八年)十二月。
以来、二十数回にわたって外債を発行し続けてきた。 その問、日本国内で転換社債を発行したのはわずかに二因。
いかにキヤノンが海外金融市場に偏った資金調達を行なってきたかがよくわかる。 行からはじまったと言っても過言ではない。
増資をやりましたね」こう語るのは当時、経理部の資金課員だった村主顧章常務だ。 村主が慶応義塾大学法学部を卒業して、キヤノンに入社したのは五四年(昭和二九年)。
K来会長とは同期入社である。 しかも、ふたりとも同じ経理部に配属されている。

私は資金課に移り、資金調達の仕事をするようになったのです。 主として銀行回りが仕事でした。
メインパンクは富士銀行でしたが、それ以外の銀行も毎月十数行ぐるぐる回って歩いた。 輸出が徐々に増えつつあったので、輸出手形を割り引いてもらったりしていました。
余談だが、当時の経理部にはどういうわけか麻雀好きがそろっていた。 経理担当役員の松井常務も、その後任の林常務も、関部長も、みんな麻雀が好きだった。
麻雀といえば、K来も入社試験の面接でM手洗毅社長と「口論」したほどの麻雀好きだ。 入社試験に危うく落ちるところを、試験官として立ち合った松井にすんでのところで助けられ、経理部に配属されたのも、案外「麻雀好き」という点が松井に「評価」されたのかもしれない。
もちろん村主も麻雀は嫌いなほうではなかった。 五0年代から六0年代にかけてのキヤノンは、売上高こそ順調に伸ばしてはいたものの企業としての世間的な信用はまだまだだったという。
でした。 簡単には銀行も金を貸してくれない。
それで増資を頻繁に行なったわけです」(村主)K来や村主が入社五四年当時、キヤノンの資本金は四億円だった。 それが「第一次長期経営計画」がスタートする六二年(昭和三七年)には三二億円に膨れ上がっている。
キヤノンがいかに急ピッチで増資を繰り返してきたかという証左である。 キヤノンの増資スタイルは、株主への割当て倍額増資だったので、資本金は一億円が二億円、二億円が四億円、四億円が八億円という具合に、ほぼ倍々ゲ−ムで増えていった。
銀行から借金はしたくない山一誼券から「外債を発行してみないか」という話がもち込まれたのはそんな噴である。 キヤノンの経営陣はこの有利な資金調違法に飛びついた。
いました。 とても増資だけでは間に合わなくなっていたのです。

山一誼券から外債発行の話が持ち込まれた一九六二年(昭和三七年)といえば、前にも述べたようにキヤノンでは「第一次長期経営計画」がスタートし、踏み出した年である。 本格的に事業の多角化にY路敬三を初代の課長とする製品研究課が新設され、複写機をはじめ、いろいろな新技術や製品のシ−ズについての開発が緒についたばかりの頃だった。
また、カメラの大衆化にともなう大量生産体制の確立も経営の急務の課題で、先行投資用の資金はいくらあっても足りなかったのである。 当時のM手洗毅社長は、銀行から金を借りることがあまり好きではなかったという。
工業など一部の例外を除けば、どこも銀行を床の間に座らせ、三拝九拝して金を借りていました。 当社も本来なら、メインパンクの富士銀行や興銀との力関係では金を借りる立場で弱いはずですが、M手洗社長は銀行の介入は受けたくないという気持ちが強かったようです」M手洗社長の方針で、キヤノンは銀行からの人材派遣を原則として断っていたし、投資についての相談も銀行にはほとんどしなかった。
つまり、自主独立の経営路線を貫いていたのである。 逆に言えば、銀行にとってキヤノンはあまりかわいくない企業だったのだ。
銀行からできるだけ借金をしたくないとすれば、どこから資金を調達したらいいのか。 それが当時の経理部の課題であり、後のキヤノンの財務戦略についての発想の原点になっている。
そんなときに山一語券から外債発行の話がもち込まれたのである。 キヤノンにとってはまさに「渡りに舟」だった。


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